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パーツいんぷれっしょん 番外編その3 ~福岡正信 わら一本の革命~

・人間というのは何一つとして知っていない。人のなすこと、人為に何一つとして意味なんぞ無いのだ

いきなりそんな事を言われてしまうと、我々矮小なる人間の些細なもがき、石にかじりつくような日々のもがき、垂れ流される汗と小便と鼻水にまみれた日々の果ての営みと、それを維持するためのもがきも。全否定されてしまうようではある。

なんだかもがいてばかりの人生のようだけれど

 

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福岡正信著・わら一本の革命。

農薬と肥料と石油燃料に支えられたこの国の農産業に対する痛烈な批判。実は我々は野菜を食べているようで、回りまわって石油化合の工業製品を食べているのではないか?

この先千年間も永続する世界を思い、至るべき未来の世界像が提示されたこの本。

 

この本に影響されて別に農業を始めようとか、近代ユダヤ資本主義が作り上げた、人の強欲がすべてを踏みにじる雁字搦めの世界をどうにかしようとかそんな事を考えているわけではない。

といいつつしっかり影響されて家の隣を開墾して無肥料無農薬の畑を作ってしまったのだけれど。

とはいえ、畝を立てただけの何の肥料も施されていない荒地の様な場所。そこに種をばら撒いただけで健気にすくすくと育つ枝豆やらクローバーやら麦の新芽を見ていると、非常に癒されるのである。

人間というのはあまりにも壮大なスケールで展開する母なるガイアの上にしがみ付いて生かされているのだ。自分達がしがみ付いている装置のスケールが大き過ぎて何が起こっているのかわかっていないだけ。

確かに自分が何をしようがしまいが大局には関係ないのではないか。そんな考えが頭をよぎると、むなしさを通り過ぎていっそ清清しくなってくる。

まあそれはそれとして、何故斯様な本を手に取ったのか。すべては無為なるペダリングの為。

それはただ重力と己の足の重さと慣性。我々を現世につなぎとめる多種多様な力学作用のみによって自然現象の様なペダリングに至るべきではないか、ふとそんな事を思い当たったのであります。

人間の足自体に相当の重さがあって、ただ足をペダルに乗せただけでペダルは勝手に下がっていくのです。がペダルのもう反対側にはほぼ同じ重さの錘が乗っかっているわけで、この錘を取っ払ってあげれば無理に力を入れなくてもドンドン足は回っていくのでは。これが実のところの引き足の効果だったり。

人間の産み出す馬力には有限であります。口からカロリーを摂取してそれを筋肉の中で燃焼させてエネルギーを生み出す。決して無から有を生み出しているわけではない。それに対して我々に働きかけている重力というのは今のところ無限のエネルギーとなっている。

この無尽蔵のエネルギーを効率よく活用し、位置エネルギーにいたる消耗分をわずかな筋肉内の燃焼によって補ってあげるならば殆どフリーエネルギーにて自転車は走ることが出来るのではなかろうか。

この考え方を突き詰めると、もしかしたら上り坂すらも坂道を転がり落ちるように走り抜けることが出来るのではなかろうか。ここまでいくと空想論、もはやカルトの領域に入りそうではあるけれど一人でニヤニヤしてしまった。ここでいうカルトはカンパのベアリングの事ではないですぞ。

ともかく、細かく還元していくと自転車を突き動かすエネルギーは我々が経口摂取する食料から作られるのであって、殆どの可食物は人間のスケールからみたら実質無限の様な太陽のエネルギーを地表が、植物が形を変えて作り出している物なのです。

本来、土と水と太陽があれば生物は生きていける。というか勝手に生えてくる。このすさまじいまでのダイナミズムの恩恵にあずかることを忘れ、勝手に石油を燃やし有限の中に閉じこもっておきながらやれ世界は限界だーとのたまい奪い合う人間の営みを考え直すためにも僕は自転車に乗っているのだ。とそういうことをこの本を通して確認するばかりであります。

といいつつ今自分がまたがっているカーボンフレームもがんがん石油を燃やして作られてるんだなーという事はおいて置いて、自転車乗りの皆様、是非一読あれ。

 

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