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ロードバイク インプレッション BMC SLR01 カーボンフレームは電気羊の夢を見るか 5

フィリップKディック著 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

火星、最終戦争後の世界、アンドロイド…etcその当時ですら既に陳腐な物になってしまったSF的な舞台装置をちりばめ、SFアクションの形を装いながらもこの小説のメインテーマは「人間とアンドロイドの違いは何か。」もっと言うならば、「人間とは何か?」を問いかけていた。

都市に紛れ込んだアンドロイドを見つけ出し、廃棄する。主人公をはじめハンター達は人間とアンドロイドの外見も含めた微細な差を炙り出す作業を重ねる内に、最終的には自分も実はアンドロイドなのではないか、という疑念に囚われてしまう。

映画「ブレードランナー」の監督リドリースコットが描き出した近未来。最終戦争後のディストピアを思わせるニューヨークの街は、西洋科学文明とアジアの猥雑さが混在したカオスの迷宮のような様だった。

そして小説の主人公達はこの迷宮よりももっと奥深いラビリンスへと迷い込んでいってしまうのだ。

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カーボン繊維、もしくは金属パイプの集合体であるロードフレームに魂は宿るのか?答えは当然否であるべきだ。

それでも自転車に魅せられた人間達はこの炭素と金属の塊に、暖かさを感じ、そこに込められた物語を読み解き、作り手の情念と魂の様なものを感じ取ってしまう。

ならば、そういう情念、思いのような物が宿らないように、計算づくでただただ理想の性能を付与されたフレームに触れるとき、彼らは何を感じるのか?それを確認してみたくて、BMCはこのSLR01というフレームを今までに無い方法で産み出したのではないか?そんな妄想をたくましくしてしまう。

そして皮肉にも、僕達はそれでも新しいSLRに魅了され、暖かさのような物を感じてしまったのだ。

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SF界の巨匠、アイザック・アシモフは遠い未来に来るべき人間と、ロボット、作られた知性が共存する社会に対して三つの原則をこう定める。

  • 第一条

ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

  • 第二条

ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

  • 第三条

ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

此れは後々の人工知能を扱うSF作品に大きな影響を及ぼす。そして神ならぬ存在に作られた知性と存在は大抵、主人である人間を、与えられた存在意義とプログラムの故に無条件に愛し、憧れ、従い、守ろうとする。

彼らは一様に人間の様に振る舞い、考え、傷つき、何故生物との一線を超えられないかと葛藤し続けるのだ。

純粋にして無垢。非生物であるが故に生命に憧れ、深く考察する。その姿を観ていると、僕は無性に悲しく、そして暖かい気持ちにさせられる。

保護すべき対象が天寿を全うし、その亡骸のそばで徐々に苔むしながら朽ち果てていくロボット達を見ていると、むしょうに涙を誘われる。

鉄腕アトムも、ターミネーターも、パシフィック・リムのジプシーデンジャーも、リアルスティールのボクシングロボットも。保護すべき人間に対する眼差しは限りなく優しかった。

僕が新生したSLRに感じた暖かさはこの類の物だったのだろうか。

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小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?」の主人公は最終的にアンドロイドに感情を認め、ついには愛すら抱いてしまう。ではアンドロイドに命は宿るのか?

個人的な意見を述べるなら、否である。

対象が思考、意識を持つとしても、霊魂はやはり人間だけが持ちうる物だと思いたい。

それでは、「カーボンフレームは魂を持ち、電気羊の夢を見るのか?」

この質問は裏を返すと「僕達の感情、思考、意識は魂から来るものなのか?」に行き着いてしまう。

思考、感情、意識が、脳内の神経細胞が伝達する電気的な刺激の副産物だとするなら、脳を持たず意識をもたないカーボンフレームはやはり夢は見ないだろう。

それでも、無機物にも思いは宿るのだ。そう信じたい。

命ある存在がその対象に触れるとき、強い思いはそこに残留する。それは魂となって、また誰かの魂と共振する。

命と、意識と、魂は、それぞれ非常に似ていながらも全く個別の概念として存在している。それでもその線引きは偶に曖昧になり、時には無機物にも暖かさと命の息吹を見出してしまうのだ。

此れは、命は命を求めてしまう本能がそうさせているのかも知れない。

今回はちょっと臭いまとめになってしまった。

BMCは深く自転車を愛しながら、意図的に自転車の枠の外から自転車の姿をした、抽象的、記号的な自転車とは似て非なる物を作り続ける。

人間と、似て非なるアンドロイドを対比させる事で人間存在の意義を浮き彫りにしようとしたSF作品のように、自転車と似て非なる物を持って自転車とは何なのか、その問いかけを投げかけ続けるのだ。

だから僕はスイスの頭脳集団を敬意をもってこう呼ばせてもらう

「メタ自転車集団」と

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