雑記 輪転する海老が背負ったアボガドという業

回転寿司が好きだ。

アイドルタイムに誰にも取られる事なく周回を重ね、カピカピに乾いてしまったネタに胸を痛めるのが好きだ。

対岸から放出された握りたてのブリの一団が、自分の前に流れてくるまでにすべて取り尽される時に感じる、嫁ぐ娘を見守る父親のような感情が好きだ。

職人のテンションゲージが振り切ってしまい、文字通り軍艦から零ぼれ落ちるほどに盛られたネギトロを見るのが好きだ。

盛者必衰、永劫回帰、人類の歴史の揺り篭を高みに俯瞰しながら回り続ける悠久の大河のような寿司のレーンが、好きだ。

なぜ回るのか、なぜ回すのか。誰が始めたのか、すべては歴史の闇に包まれている。とにかく言える事はただ只管に、無心なままに目の前に流れる寿司を取り続けてきた。回らなければ寿司じゃない。

この体の内奥。禁断の神の果実。遺伝子に隠されている二重螺旋の片側は蛇。もう片側は寿司が流れているんじゃないかと思える位に、いや、喰らいに寿司に対する渇望が体に刻まれている。

そんな位に、いや、喰らいに、もはやcryに無類の回転寿司好きを自称する僕であるのだけれど、一つだけ許容しがたい物がある。

「アボガドと海老の握り」            それはお前だ。

そもそもお偉い政治家か陶芸家かもしくはヨコヅナ位しか食べることができない高級品、それが鮨。それを我々一般人が口にするのはお盆か正月か大病を患った時であろうか。

そんな高値の華を、だがしかし腹いっぱい食べたい。寿司に抱かれて眠りたい。その願いが叶わないなら、いっそネタを剥がし、シャリを崩し、このレーンから降りてしまえ。そんな気が狂いそうなほどのパッションをかなえる為に偉大なる先人が生み出した人類の英知。それが回転寿司なのだ。

だから、高そうでいてどこかチープ。珠に奮発して一貫200円の特選ネタを頼んでみた物の案外普通。寧ろ手慰みにキャッチしたサラダ軍艦の方が美味しかったりして苦笑い。

そんな試行錯誤の中でその店特有の美味しいネタを探り当てたり、店舗ごとに微妙に異なるシャリの味付けや握り具合を勝手に格付けして一人悦に浸ったり。そうやって、寿司であって鮨ではない何物かと関係性を深めていくのが回転寿司の本来のあり方と僕は思う。

鮨と寿司。鮨には決して手の届かない何かを感じる。日本語すら通じないおえらいセンセー達が、人類の歴史を左右するような密談をする傍らに添えらるのに相応しい食事が鮨。鮨は常に歴史の影と共にある。

そんな天上の食物、蜃気楼のような鮨を我々の三次元世界に投影したものが寿司であろうか。それならば、寿司の背後に感じるのは祭りの夜のまやかしのような華やかさ、艶やかさ。

寿司であるという事実それ自体に味覚が進んで騙される感覚が、我々の知覚する寿司その者なのだ。我々が欲するのは寿司であって鮨ではない。

だとすると、この「アボガドと海老の握り」をメニューに見るときに感じる違和感はいったい何なのだろうか。

ましてやたまに若造とテーブルを囲むときに上記の「アボガド某」とサーモンばかり注文する姿を見て感じる憤りは何なのだろうか。なぜ彼らはサラダ軍艦やから揚げ軍艦、牛カルビ握り等いかにも河童的な何物かを毛嫌いするのだろうか。今、寿司が流れるレーンの上に、何かが起きている・・・・

つづく・・・・

 

 

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